2010年8月31日火曜日

メルカドの片隅より



目があったらうれしそうに手を振ってくれたのに、
近づいて話しかけても恥ずかしがって話してくれなかった女の子。





フィルムカメラとたくさんのフィルムを持ってきてはいたのですが、
なかなか使っておらず、2ヶ月経ったころにようやく1本のフィルムが終わりました。


デジカメは、何でもはっきりとうつしてくれるように思います。
「見てください、僕の技を!!僕は性能のいいカメラなんです!」って
言っているみたいに、はっきりと、がんばって。

私の撮るフィルムの写真はもう少しぼやんとしていて、それはなんだか気持ちみたいです。
あいまいなものはあいまいでいいのに、デジカメは張り切って何でもうつしてくれるから、
フィルムカメラの方が何となく気持ちが通じている気になります。

フィルムで写真を撮ること、楽しいです。
これからしばらくフィルムで写真を撮ろうと思います。


2010年8月28日土曜日

salsa salsa salsa

最近、サルサを習い始めました。

サルサを始めたのは、人が踊っているのを見て、何だかいいなと思って、踊ってみたいな、って思ったから。踊るっていいな、って素直に思ったから、始めてみました。

私の運動神経の悪さとバランス感覚のなさは、私を知っている人ならきっと誰でもご存知でしょうが(「運動、苦手だよね?」とできないことを前提として会話を始められたことがこれまでに3回あるのです。肯定から質問ではなく否定から質問です。初めてそう言われたときは少し衝撃でしたが事実です)、それでも男性が手を引いてくれるので女性は案外簡単にくるりと回れてしまうのです。

なかなか思うようには踊れないのですが、でも踊ることってただ単純に楽しいです。
体中で、筋肉一つ一つで踊っている人たちを見ると、踊りとか音楽は、人間がそれを必要としたから生まれたのだろうな、というか、人間の体の底からそれらが生まれたのだろうな、ということを思います。うまく言葉にならないのですが。踊ることは、人間の根本の愉しさとか快楽とか喜びみたいなもののように感じるのです。

踊ることは楽しいのですが、でもなかなか私はバランスが取れなくて、先生に「きみの課題はバランスを取ることだ」と言われます。くるくる回って、ふらふらしてしまって、重心を保つことバランスを取ることが私はとても苦手です。

バランス感覚ってどうすれば養えるのだろう、と思いながら、毎日片足で立ってみたり、回る練習をしてみたり。


何事においてもバランスのとれた人でありたいと思います。
でも私はあっちに傾き、こっちに傾き、いつもふらふらしています。
くるりとまわったら同じ場所に戻ってこれなくて。

バランスがとれた人でいられるように、くるりと回ってもまっすぐ視線を保てるように。
踊りにおいてバランスが取れるようになったら、なんだかそれは私の一つの基盤になるような気がするのです。
ほんとうのところはわからないけれど。

2010年8月25日水曜日

heaven helps,


Heaven helps those who help themselves.
神は自らを助くるものを助く


いつだって貪欲に前向きに生きていかなくちゃいけないんだろうな、と思います。
無限にあるものなんてないんだから、ぼーっとしている場合ではなくって。忍耐も大切だけれど、今の私は合わないことを無理してやっている場合でもなくって。自分にとってつまらない時間を過ごしている場合でもなくって。
貪欲に、前向きに、強く明るくたくましく。


最近いつも頭の中にあることば。

Heaven helps those who help themselves.

2010年8月22日日曜日

白か黒かなんて言えない


スペイン語の勉強って、自分にとっては何か?ということを考えていました。

ある人は、「趣味だから。」
またある人は、「中南米の旅行のため。」
別の人は、「これからスペインで働きたいからその下準備。」

私にとってはこれは趣味でやっているものではないのです。
趣味ではなかったら仕事にしたいかというと、そう思ってやっているわけでもないのです。
その話をしているときに、「趣味でも仕事でもなかったら、じゃあ一体何?」と聞かれてでもうまくことばにならなかったのです。

「好き」でやっていることだから、「趣味」と言ってしまえるのかもしれないけれど、でも「趣味」の範囲では終わらせたくない、でも仕事にすることは考えていない(そんな先のこと分からないし)というような気持ちの中にいます。それは「趣味でしょ」と周りに思われることかもしれないのですけれど。それでも私は違うと思います。いや、これは趣味ではない、と。趣味ではなくこれです、と、はっきりと断言できることばが見つからなくとも。

ことばにならないことは、そのままでもいいかな、と思ったのです。
ことばにしないと社会の中では納得されないことが多いけれど、ことばにならないことの方がずっと多いように思うのです。
もう少し、ことばにならないことというのをそのまま受け入れられる中に暮らしていたい、何か定義づけられるものの中にしばられていなくてもいいかな、と。


先日、よしもとばななの文章でこんなものを読みました。(一部省略してあります。)

だれだって、なにかにならなくてもいいのに、と思う。いつだれにそんなことを植えつけられちゃったんだろう、自分も含めて。まじめに生きて働いてる人が幸せでいられる日本になっていくといい。


ほんとうにそうだ、と思ったのです。
なにかにならなくていいし、ことばになることばかりやらなくていいのだ、と。


いつもひとりごとばかりのこのブログを読んでくださっている方々、ありがとうございます。
そろそろグアテマラ生活2ヶ月経ちますが、私は元気でやってます。
少しずつスペイン語も伸びてきています。たぶん。きっと。
明確に先は見えませんが、でもがんばってやっています。


2010年8月19日木曜日

シティふたたび

少しばかり前回の続きにおつきあいくださるとうれしいです。

数日前、お盆に田舎に行った母からこんなメールが届きました。
「じいちゃんも、畑のウリを盗まれたって言ってた。
どこにでも悪い人はいるものだね。」

以前のブログでも書いたのですが、私は性善説を信じているから、人はもともと善いって信じているから、強盗する人にも何らかの理由があったと思っています。
でも、人は簡単には信じられるものでもなくて、疑ってかかった方が、何かあったときに落ち込むことも動揺することもなく、そういうものだよな、と自然に受け入れられるのかもしれません。初対面の人をまずは疑うというのは、ある意味、自分を守るための生きる術のようなものかと思います。「人はみんないい人」と思うより、「どこにでも悪い人はいる」と思っている方が自分の身を守れるし、強く生きていけるかもしれないし、世を渡っていけるような気がしたのです。


前回の事件(?)から3日後、またグアテマラシティに行ってきました。アンティグアからバスに乗って、シティに着いたら鞄を切られたときに乗っていたバスと同じ路線のバスに乗り換えて、目的地まで。

その数日前に強盗に遭いそうになったばかりだったから少しためらったけれど、シティに行く用事があり(と言っても絶対行かなくてはいけない用事でもなかったのですが)、日程的にもその日を逃せばずるずると延びてしまいそうだったから行ってきました。(事件があった日は土曜だったので、私の用事が済ませられなかったのです。)
虫の知らせみたいなものをなんとなく私は信じているので、少しでも嫌だな、と当日思ったらやめよう、と決めていたのですが、その日の午前中(平日午前中はいつも学校です)、あ、行ける、今日行かなくちゃいけない、と思ったからその勢いで、バスに乗って。

バスを降りるところがわからなくてきょろきょろしていると周りの人が助けてくれて、バスを降りたら横に座っていた人がバスの中から「あっちに歩け!」ってジェスチャーで教えてくれて、道の上でもたくさんの人に助けてもらい、バスは相変わらず混み混みで私は鞄を抱えて緊張して乗っていたけれど、それでもたくさんの人に助けてもらって、あたたかな人にたくさん会いました。

そう、世界ってこういうものだったよな、と思ったのです。
困っている人を見たら助けてくれる人の方が、良からぬことを考えている人よりずっと多いんだよな、と。

それが分かったから私はまたシティに1人で行けるし、別の街にも行けるし、旅を続けられるように思ったのです。

それに、私はやっぱり人を信じ続けたい、と思ったのです。
疑ってかかる方が楽だし失望もしないかもしれないけれど、疑うことよりは人を信じていたいのです。
強盗や嘘つきや人騙しがいるとわかっていても、「人を信じない世界」よりも「人を信じる世界」の中で生きていきたいのです。


鞄は縫って使っています。
こんなことで鞄を使うのをやめたら鞄に申し訳ないし、私自身も、こんなことでくじけるもんか、という気合いを込めて。


今回のことはいいきっかけでした。
去年1年間の旅ではこういうことはなかったし(スリはあったけど、刃物は出てこないのです)、ここに来ても自分の周りが平和だし、アンティグアだったら1人で夜に出歩くことをいとわなくなっていたし(本来それは危ないことなのに)、どこか、日本と変わらないような治安だと錯覚してしまっていたから。改めて、気をつけなくちゃ、と思った事件でした。


2010年8月16日月曜日

ここはグアテマラ


私が今いるのは中米の一つの国なのだな、と改めてはっきり思った出来事。



今私が滞在しているのは、首都グアテマラシティからバスで1時間弱のアンティグアというところです。

中米の首都はどこでも治安が悪いと言われているのですが、グアテマラシティもその例にもれず、昼間から町中には手榴弾が飛んでいるだとか(これ本当らしい)、給料日後はお金を持った人をねらう強盗が出るから治安が悪くなるだとか、そう聞けば給料日前にはお金がなくなった人が強盗をするから治安が悪くなるだとか(じゃあいつならいいのだろう?)、アグア火山という山に登れば80%の確立で山賊に遭うとか(実際強盗に遭った人を数人知っている)、それはそれは様々な噂を聞いていました。

土曜日に美術館に行き、その帰りに買い物をしようとバスに乗っていたときのこと。
JR東海道線の通勤ラッシュぐらいにはバスは混んでいて、でもなんとか私が乗ったときには座ることができて、降りる場所の近くになって席を立って、ぎゅうぎゅうの中を出口近くで待っていたとき、かばんに違和感を感じました。あれ?と思いつつもかばんが自分の前にきちんとあること、ファスナーが閉まっていることを目で確認して、よし大丈夫、と思い、そのままバスが停留所に着くまでのほんの少しの間に。ナイフでかばんを切られてしまいました。

噂は聞いていました。鞄が切られることもある、と。
その被害に遭った人の話も聞いていました。でもまさか自分の身にそれがふりかかってくることを想像もしなかったので、起こったことの驚きとショックと、約6年使って体に馴染んでいた鞄を切られてしまったことの悲しさと。治安が悪いのは分かっていたから、貴重品は持たず、お金も分散させ、小銭入れはその鞄の内ポケットに入れていたので何も盗られてはいないのですが。

でも、ほんとうにあるのだな、と思ったのです。
ここには、ほんとうにそういうことをして生きている人が少なからずいるのだな、と。


今まで少しでも世界のいろいろな土地に行って、想像以上の貧富の差を目にすると、強盗だけが悪いとは言い切れないような気がするのです。資本主義が、その社会体制が、豊かな人や国が貧しい人や国から搾取している現実が、強盗を生み出してしまうのだなと思うと。そうすることが生きるすべとなってしまうのだな、と思うと。

遊ぶためのお金のための強盗もいるかもしれないけれど、生活のための強盗も少なからずいると思います。以前聞いたのは、強盗は副業だから、ということ。本業は農業だったり別の仕事を持っている人がほとんどだけれど、それでは生活が苦しいから強盗する人が多いんだ、ということ。

人のものを勝手に奪ったり理由なく人を傷つけたりすることは認められることではありません。それは悪いことだと、はっきりと確信を持って思います。
強盗を肯定することなんて到底できないけれど、でも私は彼らの生活の苦しさを知らないから、それは悪いことだとも、どこか一言では言えないように思うのです。

それでも、私は強盗に遭うのも恐い思いをするのももうこりごりです。
ここは中米にある一つの国、グアテマラでした。
もっと気をつけなくてはいけないし、中米にいるという意識を持たないといけないな、と改めて思った日でした。


もう一つ、ここはグアテマラだと感じたこと。
美術館が雨漏りすること。(今までいろいろな美術館に行ったけれど、雨漏りする美術館は初めてです。しかもそれは国立美術館なのです。置いてある作品はものすごく素晴らしく、もう一度行きたいぐらいなのに、雨漏りって•••。しかも数カ所雨漏りしていて、当然のようにバケツが置いてあるのです。直接作品には当たらなくても、作品が劣化する気がします。おまけに受付のおじさんの裁量で入場料の値引き可です。それでいいのかグアテマラ。)


2010年8月9日月曜日

勉強ってどういうことだろう。

今、私の周りにはスペイン語を勉強している人たちが何人かいます。


机に向かって1日7時間勉強する人もいれば、「おれに学校は合わねぇ」と言って街に繰り出し、酒場をまわりながら人と話をすることで言葉を身につけている人もいます。


ここはマンツーマンで教えてもらえるので授業もいろいろで、文法をがしがし勉強している人も、社会問題や文化風習など、何か1つのテーマについて話す練習をする人、「おれ文法きらい」「じゃあおしゃべりしてよう」とおしゃべりしている人、料理の話をよくするのかグアテマラ料理に詳しくなっていく人、いろいろなやり方でそれぞれ勉強しています。


それぞれがそれぞれのやり方で勉強していて、分からないところがあれば誰かに尋ねたり教えてもらったり、「こんな単語覚えた」なんて言いながらお互い少しずつ刺激し合いながら助けてもらいながら過ごしています。


ごはんを食べて、お茶をいれておしゃべりして、時にはお酒も飲んで、でも誰かが「勉強しなきゃ」ってつぶやいて、別の誰かが「そうだね」ってうなずきながら勉強に戻る(勉強に戻らずおしゃべりしているときもあるのですが)、学生寮のような雰囲気の中にいます。


この中にいると、自分がやりたいこと必要としていることをそれぞれのやり方でやることがそれぞれの勉強だな、と思います。今ここにいる人たちが大人で、スペイン語を身につけるという意識があり、自分のやるべきことを分かっているからできることなのかもしれないのですが、みんな勉強が好きだしスペイン語を伸ばしたいと思ってがんばっているし、こんなにのびのびと勉強している人たちがたくさんいると、勉強ってこういうものだよな、ということを思います。


学校教育は大切だと思うし、義務教育で教わることは大人になって使わないことだとしても生きる上で知っておくべきことがほとんどだと思っています。だから学校教育を否定するつもりはないけれど、でももう少しだけゆるやかにのびやかに、教育に対してがちがちに固めなくてもいいような気がするのです。


それぞれのやり方でやることを日本の教育の中でも、もう少し、ほんのもう少しだけ認めてもいいのではないかな、と思います。

そしたらもっといろんな可能性が広がるかもしれない、と思うのです。

大げさかもしれないけれど、そうしたらもっと国が元気になるような気がするのです。


いろいろな意見があるでしょうし、何が正しくて何が間違っているのかはわからないし、人のやり方考え方についてどうこう言うつもりは全くないのですが、最近ちょっと思ったことです。つい先日、宿に日本の新聞がおいてあり、ふと手に取ったその見出しが偶然にも「引きこもり70万人」だったので余計に考えてしまったのです。



私は今日も自分の勉強をします。

もっと効率よく勉強した方がいいとか、ぶらぶらせずに勉強する方が早く上達するとか人には言われてしまうかもしれないのですが、たとえ遠回りだとしても自分が必要だと思うことを自分のやり方でしようと思うのです。


2010年8月7日土曜日

さよならさんかく


「さよならさんかく」ってきいたら
「またきてしかく」って言葉が出てくるひとってどのくらいいるのだろう、
とふと考えながらのある日のお散歩。




昨日見つけた、ちょっと衝撃だった単語は、encebollarという動詞。
cebollaは玉ねぎで、encebollarは「玉ねぎを入れる」。
動詞ってこんなに自由に作っていいのね•••と思ったきのう。

でもよく考えたら、日本語もかなり自由。
こないだ耳にして、あっ!と思ったのは、「肉肉しい」。
にくにくしい、ってわかりやすいけどなんだかすごい形容詞ですよね。

命令形を習った数日前。
先生が言ったこと。
「いい?今日一番大切なことはね、besameとabrazameだからね。
まずはこれを覚えなさい。」
besameは「キスして」と、abrazame「抱きしめて」。
ラテンってすごいです。使う機会があるのやらわかりませんが。


それではまた。
さよならさんかく またきてしかく

いつも読んでくださっている方、どうもありがとうございます。

2010年8月5日木曜日

机のうえより空のした



ここで勉強を始めて一ヶ月と少し。
中学校で習う英文法にあたるところまで終わって、
少しずつボキャブラリーも増えて、
少しずつスペイン語を理解できるようにはなりました。

でもまだまだ思うようにはいかなくて、
伝えたいことはたくさんあるのに、
言葉が出てこないことの連続です。
このままでは何かいけない、と思い出した最近。

机に向かって学ぶことは大切だけど、
でもそれだけでは何か違う気がして
最近は毎日外に出て人と話すようにしています。

ほんとうに何かが分かるとか、身に付くとか、できるようになるとか、
それは机に向かっているよりも、外に出ているときの方が多いような気がするのです。
外の空気の中、人と話すこと話をきくこと、何かを見ることで、身につけたことって、
私にとっては机上の勉強よりもずっと意味をもっているような気がするのです。

それに外に出るのは単純に楽しいです。
知らないことおもしろいことがあちこちに転がっています。
だから、毎日あちこち出歩いています。
机に向かう時間は減ったけれど、人と話す時間は増えました。

伝えたいことを人に伝えられるように。
道は険しいですが、少しずつでも進むしかないのです。
ゆっくりと、でも確実に、身につけたいと思っています。


2010年8月1日日曜日

プリンにときめき


昨日聞いた、印象深かったこと。
お金持ちの子どもを、海や山など、キャンプや合宿に連れて行くアルバイトをしていた大学生の話。

「あるとき、合宿の昼食のデザートでプリンが出たんですけど、テーブルに座っている6人のうち5人は手をつけないんですよ。いつももっと豪華なもの食べてるからプリンを見ても何も反応しないんですよ。」

プリンに目を輝かせない小学生がマジョリティを占める社会なんて、私は想像したくもなくって、それは確実に何か間違っている、と思います。
プリンごときで、と思われるかもしれないけれど、「プリンごとき」で終わらせられる問題ではないような気がしてなりません。

そんなことを思った昨日の朝。



甘くて人工的な味だろうな、って思ったけれどつい買ってしまったブリンのもと。
帰ってから見たら、ちゃんとご丁寧に、人工的な味と匂いです、って書いてあってちょっと苦笑。

次はちゃんとしたプリンを作ろうと思います。

私はいつまでもプリンにときめき続けます。